礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2025.9.21 主日礼拝 ヨハネ福音書講解⑮「少しも無駄になさらない神」友納靖史牧師【ヨハネによる福音書 6章1~15節】(新共同訳 新約P.174)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 コリントの信徒への手紙 一 15章58節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生124番「この世はみな」
主の祈り
献金感謝
聖書 ヨハネによる福音書 6章1~15節
特別賛美 「主をたずね求めよ」
宣教 ヨハネ福音書講解⑮「少しも無駄になさらない神」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 新生645番「すべてをくださる恵みの神」
頌栄 新生674番「父 み子 聖霊の」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 「五千人の給食」として有名な主イエスの奇跡。それは、主の話しを聞き(見に)に集まり、神の教えで霊的に満たされた人々の肉(身体)的必要も主が満たしたいとの願いから始まりました。それを察知した1人の少年の差し出した5つのパンと2匹の魚を主が天の祝福を仰ぎ祈り配った時、驚くべき出来事が起きたのです。一箇所だけでも聖書は実に多様な御国のメッセージが込められ、語り尽くすことは出来ません。聖書に親しみ始めた方のため、同箇所から原稿を書く機会を頂きました(「婦人之友」10月号)。そこで本日の礼拝に集う皆さんと、より深い御言葉の真理に聴く時とさせてください。
キリスト者となる時に誰もが抱く一つの疑問。それは「福音を聞くことや信じることなく死んだキリスト誕生以前の人々は救われ、天に入れるのか?」があります。今日のキーワードとして注目したいのは、全ての人が満腹して残ったパンくずを集めるように命じられた主の言葉「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい(6:12)」です。ここで「無駄にならない」とは3章16節「一人として滅びることなく」と訳される同じギリシャ語です。つまり、主イエスを通して示された神の救いの計画は、すべての人(「ほかの羊」10:16)が神の救いと恵みに預かることでした。それも魂の問題だけでなく、日毎の糧(生活)にまで主の心配と配慮があったのです。この奇跡に遭遇した人々の中には、主がベトザタの池での癒しの奇跡の後に話された説教を聞いていた人々(5章)もいました。特に注目したいのは、「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる…(5:25-26)」とある主の言葉の真意です。この箇所の神学的論争は尽きません。つまり「死んだ者」とは霊的な死、つまり生きていても神を信じることなく過ごしている人を指すのか。それとも文字通り、生前にイエスを知ることも信じることもなく死を迎え、世の終わりの神の裁きの時を待つ人々のことを指すのか…と。正当キリスト教神学に立脚すると「セカンドチャンス論(イエスを信じることなく死んだ人が死後の世界でもう一度福音に触れて救われる機会がある)」も、「万民救済説(イエスを信じていない人も神は最終的にすべての人を救われる)」と、これらの考えを私たちは公に告白しません。けれどもこの箇所5章25節を読む時、主イエスの愛と救いの広さ高さ長さ深さは、人知を遥かに超えていることを思い起こさせます(エフェ3:18-19)。
主が人々の必要を満たそうとされた思いに対し、弟子たちは少年の差し出した物を見ても、「何の役にも立たないでしょう」と否定的批判的態度を表しました。ところが主は弟子の制止を振り切り、目の前に与えられたパンと魚を感謝し祈り、全ての人々が満たされていく神の業を示されたのです。つまり、私たち人間の常識や想像力、神学さえも越える偉大な神の愛は、神に背き続ける罪人なる人類すべてに注がれていると教える主イエスに信頼することが求められます。信仰の焦点をそこに合わせる時、イエスが単なる預言者でも、この世の王でもなく(6:14-15)、「救い主」であり「神ご自身」であると信じ(知)る時、「今この時」に、神の栄光を仰ぎ見る恵みと平安に与ります。
ガザやウクライナ難民を含め、世界中に横たわる理不尽で受け入れ難い苦悩を担う方々に私たちが出来ることは何もないような無力感に襲われます。しかし、イエスの許へ人々をお連れし、イエスを「信じ」「知り」「声を聞く」ことで、その人は『(永遠の)命』を得ると約束される驚くべき福音に依り頼み、ひたすら神の偉大な愛と福音の種を蒔き続け、天に帰った時、多くの魂の実が収穫されていた喜びを知ることになります(詩126:5-6・コリント一 15:58)。
小さな業でさえ無駄になさらない神を信頼し、臆せず 福音宣教の業に励みましょう。